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2009/08/21

岩剣神社

岩剣城(いわつるぎじょう)は中世城郭。紹隆寺の南西に聳える標高210mの岩剣山頂にあり、山は剣の平(けんのひら)とも呼ばれている。 島津義久、義弘、歳久の初陣の合戦が行われた城として、また、鉄砲が日本史上初めて実戦で使われた城として有名である。薩摩国の国人の一人・祁答院良重が建設したと伝えられるが、築城時期の詳細は不明である。1529年頃との説がある。
 天文年間、祁答院良重は菱刈隆秋、蒲生範清と組んで島津貴久に反旗を翻した。天文23年、菱刈、蒲生連合軍が島津側の武将・肝付兼演の居城である加治木城を攻め、貴久は加治木城を救援するため祁答院良重の住む岩剣城を息子の島津義久、義弘、歳久に攻めさせる。岩剣城は三方を断崖に囲まれた天然の要塞であり、良重もよく籠城して耐えたが、救援に来た蒲生範清が島津側に撃退されると孤立無援となり、最後は籠城した女性が化粧道具を投げてまで応戦したが多勢に無勢は明らかで、ついに良重主従は岩剣城を捨てて本拠のあった祁答院(現薩摩川内市祁答院町)に逃亡し、岩剣城は落城した。残された女性は城の断崖から身投げして自害したという。 この城がなかなか落城しなかったのは、麓の岩剣神社の加護があるからだとして、御神体を白銀坂にある島津氏の本陣に勧請して「戦いに勝利を収めたら、毎年例祭日に神舞を奉納しよう」と願を立てたところ、その夜のうちに城から敵勢が逃亡し落城したとの伝がある。
紹隆寺の開闢開山(最初に立てられたときの住職)心厳良信大和尚は、
1396年生まれ、本寺福昌寺五世、1468年寂。岩剣城の戦いは1554年でした。
おそらく心厳良信さんの孫弟子が実質のご開山でこのいくさの戦死者を祀るためにこの寺を建立したのでしょう。これが怨霊信仰に基づく日本の伝統であり、信心深かった島津も戦に勝つたびに一週間
怨親平等に祀る施餓鬼を執り行い、一寺を建立したようです。そしてあと祀りの為祠堂田を附けて明治にいたるまで菩提を弔ってきたものと思われます。平成十六年岩剣神社が紹隆寺の鎮守さまであることがわかり、一日、十五日の精進日にはお参りを欠かさないようにしている。御神体は看板と違い猿田彦さんで、左奥の祠におられる。正面の社には何か女性の神さんが居られるようです。

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